2011年2月22日火曜日
贈る言葉。
―「お前はお喋りが退屈でないのか」 「あたりまえさ。誰だって喋っていれば退屈しないものだよ」 「俺は喋れば喋るほど退屈するのになあ」 「お前は喋らないから退屈なのさ」 「そんなことがあるものか。喋ると退屈するから喋らないのだ」 「でも喋ってごらんよ。きっと退屈を忘れるから」 「何を」 「何でも喋りたいことをさ」 「喋りたいことなんかあるものか」(坂口安吾『桜の森の満開の下』)
―(日本人が外人みたいに英語を話すなんて、バカな。外人みたいに話せば外人になってしまう。そんな恥しいことが…)(完全な外人の調子で話すのは恥だ。不完全な調子で話すのも恥だ)(おれが別のにんげんになってしまう。おれはそれだけはいやだ!)(小島信夫『アメリカン・スクール』)
―自分がたとい最も適当な人間でなくとも、ただ人間の一人でさえあるならば。結局、自分のほかにその人はいないのだ。(リルケ『マルテの手記』)
―ここに部屋が、自然には開かれているが他の人間たちには閉ざされた閉空間があり、そこで、夜を単位に数えられはするがそれぞれの夜には終りがないようなそんな無限定なある期間、二人の存在者が、彼らの完璧な結合であるだろうものの真理にほかならない失敗を、あるいはつねに成就しないことによって成就するこの結合の嘘を生きる(ある種のやり方で言祝ぐ)ためにのみ、ひとつに結ばれようと試みる。こんな有様にもかかわらず、彼らは何か共同体のようなものを形づくっているといえるのだろうか。(モーリス・ブランショ『明かしえぬ共同体』)
ダン・ブラウンの『ダヴィンチ・コード』で狡猾な老紳士が言っていたように、聖書は天上からファックスで送られてきたのではない。血塗られた論争の爪痕。多くの犠牲によってかろうじて死守された文言が、次の十年で歴史の闇へと葬られる。そしてまた新たに付け加えられるのだ、その時代の権力者の吐き出すロゴスが。あるいはそれに抗した者がいたかもしれない。偽ディオニシウス・アレオパギタがそうだ。彼は『天上位階論』のなかで天使を9つの階級に区切り分けていった。これは5世紀のことだ。(セラフィムからはじまってアンゲロイまで。)17世紀には、旧約聖書のたった数ページを膨大な長編叙事詩にしたミルトンが堕天使に語らせる。「一敗地に塗れたからといって、それが何だというのだ?すべてが失われたわけではない―」そして20世紀。アーレントが陳腐さにその根源があったと断じた凶行から生き延びた男が、天使に新たな解釈を加える。「いわく、天使というものは、たんなる空想の産物でも、超自然的存在でも、詩的な夢でもなく、わたしたち人間の未来の姿だ。」(プリーモ・レーヴィ『天使の蝶』)
国際交流、という手垢にまみれた言葉を口にするたびに、僕はミラン・クンデラの『不滅』を思いだした。そこにはこんな一節があって、それは往々にして僕を陰惨な気分にさせた。「われらの地球が八百億近くの人間が通過するのを見てきたにしても、彼らがそれぞれ各自固有の仕草のリストを持っていたことなどありそうにない。算術的に、それは考えられない。この世には、個人の数より仕草の数のほうが少ないことは明白である。そこでわれわれは不快な結論に導かれる。つまり、仕草の方が個人そのものよりも個性的なのだ。」
文化人類学の大きな壁のひとつに、文化相対主義という考えとその限界があるのだが、突き詰めて言えば、われわれはそれぞれに異なる文化を背景にしており、それらは相互に理解することができず、その差異を受け入れるしかないということだ。そこでは逆説的にも、オンリーワンが一笑に付される。不可能性に加えて、僕らは仕草にすら個性において負けている。しかしそれでも、物語の力を僕はまだ信じている。僕らは少なくとも物語ることができる。今日、誰かのナラティヴ。喘ぎ声とうめき声にかき消されながら確かに語られてきたイストワール。ある種の空想―それは空を飛び回ることへの憧れだったかもしれないし、亡くなった子供たちの記憶だったかもしれないが―によって生まれた天使という産物が、数千年の時を経て、人間の未来の姿にまで拡張されたように、過去のありとあらゆる引用から練り上げられた物語をひとつ先の未来へと投企する。これは現代美術でも、ティーパーティーでもたぶん同じことだ。
「われわれには最早引用しかないのです」とボルヘスは書いたが、これは決して悲観的な意味だけではなかったはずだ。だから、僕も引用を続ける。今度は少し長くなるから、少し再構成して書いてみたい。想像してほしい(想像することは深く潜るために一番重要なことだ)。J.M.クッツェ―の『夷狄を待ちながら』。
年老いた男は人生をかけて、ある謎を追っていた。遺跡から発掘された木簡の解読。そこに刻まれた文字の意味を解き明かすため、男は来る日も来る日も悩み抜いていた。男はひょんなことから夷狄(バーバリアン、即ち異民族だ)と知り合いになり、彼女をかばう。そして上司に詰め寄られるのだ。上司は言う。「木簡にはあなたと相手方との間に交わされた伝言が含まれていると考えるのが妥当なところだよね」―男は、「とうの昔に死んだあるひとりの見知らぬ人によって書かれた文字の列を眺める。それは右から左へ読むのか、左から右に読むのかということさえ私(=主人公)にはわからない。収集した木簡をじっと眺めて長い幾宵も過ごしながら、その手書きの文書の中に私は四百以上の、たぶん四百五十もの、別々の文字を単独に拾い出していた。それらがどういう意味を表しているのかは皆目わからない。(中略)あるいは、私の四百例の文字は、私が愚かにもその原始的な形態を見抜けないでいる二十か三十の基本語彙の、筆者された装飾にすぎないのだろうか。」男はそう嘆息した後、すらすらと木簡を「読みあげていく」。大哲学者カントは書いた。「君の意思の格率が常に同時に普遍的立法の原理に妥当するよう行為せよ。」僕はこの小説を読むたびにそれを思いだす。
僕が言いたいのはこういうことだ。あらゆる物語は意識的にせよ無意識的にせよすべて何らかの形で交錯している。それを飲み込んで生きていかなければならないし、それらを避けて物語ることも到底できない。間主体性。間テクスト性。テクスト外などない。なんだっていい。井戸の底で思索に耽る主人公に、女の子はこう言い放って蓋をする。「考えなさい、考えなさい、考えなさい。」(村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』)
僕もまた同じことを言うだろう。考えろ、と。そしてこうも言うだろう。手を動かせ、と。そんな没個性的な語りに、僕自身の仕草が命を吹き込んでくれるんだろう。ありきたりで抽象的ではあるけれど、少なくともこれからあともう少し続く大学生活において、これは結構本質をついたアドバイスにはなりうるはずだ。あともう少しだけ。ラディゲの言葉を引こう。彼はこの本(『肉体の悪魔』)を18歳の時に書き、20歳で死んだ。彼は確かにある高みに達し、そこからの風景を、空気を知っていた。僕らはこれからだ(まさか今が人生のハイライトだとか思ってはいないだろうね)。そのために全力を尽くさないといけない。それゆえの警句。これは乗り越えるためにある。「僕のこうした洞察は、無知のいっそう危険なかたちだった。自分ではなんでも承知しているつもりだが、無知の別の状態に移っただけなのだ。いかなる年齢も相応の無知を逃れることはできない。」
最後に昨年僕が出会ったもっとも素晴らしい小説の一節を引いて終わりたい。というよりもむしろこの引用に埋め尽くされた文章は一種の小説紹介でもある。(当然ほかにも薦めたい小説は山のようにあるのだけれど。)いずれにせよ、僕の場合、新天地は少しばかりお預けとなり、地平線によって二色に分けられた新抽象主義的なアフリカの大地ではなく、水をたっぷり含んだ毛筆をざっと横一文字に走らせたような灰色がかった空の下の、Web2.0な場所なわけだけれど。
―草原で待ち伏せする動物採集隊の通訳責任者たる僕の眼の前に、巨大な鼠色の腹へ「希望」とペンキで書いた象がのしのし歩み出て来ると思っているわけではないが、いったんこの仕事を引きうけてみると、ともかくそれは僕にとってひとつの新生活のはじまりだと思える瞬間がある。すくなくともそこで草の家をたてることは容易だ。(大江健三郎『万延元年のフットボール』)
秋からイギリス行って、がんばってくる。
みんなもがんばって。時間はないぞー。手ー動かせー。
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